「さらさら越え」は商人の道? 同行者証言の新史料を確認

2019/01/21 02:11

 越中を治めた戦国武将・佐々成政が厳冬の立山を越えて徳川家康に面会したと伝わる「さらさら越え」のルートは、商人が越中と信濃を行き来した道だったとする史料を富山市郷土博物館の萩原大輔主任学芸員が20日までに確認した。史料にはその道が「ざらざら越え」と呼ばれていたことが記されている。さらさら越えのルートは立山信仰の道など諸説あり、商人の道とする新説を含め、さらなる調査が待たれる。

 

 さらさら越えについての記述は、戦国時代末期から江戸時代前期の出来事をまとめた三巻本「乙夜之書(いつやのかき)物(もの)」の下巻で見つかった。1671(寛文11)年に書かれた本で、金沢市玉川図書館近世史料館が所蔵する。成政のさらさら越えに18歳で同行した者の話がまた聞きとして記録されている。

 

 同行者の証言によると、他国を通ることが難しかった戦国時代、商人が立山連峰を越えて往来する道があり、「ざらざら越え」と呼ばれていた。本来、冬場の通行は困難だったが、成政はこの道を通り、道中で吹雪に遭ったという。江戸時代に入って利用者がいなくなり、道筋そのものがなくなったとしている。

 

 萩原学芸員によると、立山町芦峅寺(あしくらじ)で「信濃へひそかに往来した商人は処罰する」という内容の戦国時代の書状が確認されており、立山を越えて信濃へ通じる商人の道があったとする同行者の証言と一致する。

 

 乙夜之書物をまとめた加賀藩士の関屋政春は3代藩主前田利常に仕えて出世した知識人で、信頼性は高いという。

 

 さらさら越えの時期は12月中旬から1月中旬とされている。大雪の立山連峰を越えるのは困難として、新潟や岐阜を経由した説を支持する研究者もいる中、萩原学芸員は確認された史料は立山連峰説の補強材料となるとみている。

 

 一方で、萩原学芸員は、関屋が直接聞き取った証言ではなく、さらさら越えの時期を3月としているなど定説と異なる点があることから、同行者の証言の信ぴょう性に問題があると指摘。この史料だけで商人の道をさらさら越えのルートと断定することはできないとしている。

 

 萩原学芸員は「ざらざら越え」と記す史料がほかにもあることを挙げ、「さらさら越えの呼び名は道の名前に由来し、古くはざらざら越えと呼ばれていたのではないか」と考察した。

 

 調査内容は歴史学会「越中史壇会」(富山市)が昨年12月に発行した機関誌「富山史壇」で紹介された。