石田三成が越中攻めに参加 富山市の学芸員が新説発表

2019/06/06 01:41

 1585(天正13)年8月、富山城主佐々成政を関白豊臣秀吉が攻撃した「越中攻め」に、石田三成が従軍していたとする説を、富山市郷土博物館の萩原大輔主任学芸員が5日までに発表した。高岡市の勝興寺に残る三成の署名がある書状に、寺へ向かう三成の警護を秀吉が前田利家に命じた文章が確認された。萩原学芸員は「越中攻めは三成が秀吉の信頼を得た戦いの一つだった」としている。

 

 これまでの研究では、越中攻めには織田信長の次男・織田信雄や上杉景勝ら有力武将が多数参加していることが分かっているが、三成が従軍していたかどうかは、はっきりしていなかった。

 

 萩原学芸員によると、勝興寺には越中攻めの史料として、三成の官職名「治(じ)部(ぶ)少輔(しょうゆう)」を略した「治少」の署名が残る書状や、勝興寺に対する秀吉の命令を記した制札が残る。萩原学芸員はこれらの史料を基に「三成が越中攻略のため、秀吉の命令を受け、越中国内に強い影響力を持つ勝興寺に制札を持参したと考えられる」と分析する。

 

 三成は当時、秀吉直属の官僚で参謀の1人だった。越中攻めでは、秀吉のそばに仕え戦中の外交交渉や身の回りの警護を担ったとみられる。三成は越中攻めの後、京に近い要衝で、秀吉が拠点とした近江国佐和山城(滋賀県彦根市)を預けられている。萩原学芸員は「三成は越中攻めなど秀吉にとっての重要な戦いで経験を積んでいった」と指摘する。

 

 萩原学芸員は、越中攻めには三成のほか、三中老の1人となる堀尾吉晴や初代土佐藩主山内一豊ら、後に豊臣政権の中枢を担う人材が多数参加していたとして、「越中攻めは三成をはじめ彼らの飛躍のきっかけになった戦いと位置付けられる」と話した。